兎走唄の勉強机

ノンジャンルで勉強します

両統迭立についての考察

導入

タイトルの「両統迭立」がまず読めるかって話ですよね

そしてその意味はなんやねんって話ですよね

以下、広辞苑第6版より引用

両統迭立(りょうとうてつりつ)

鎌倉後期、大覚寺統亀山天皇の血統)と持明院統後深草天皇の血統)との両統がかわるがわる皇位に即いたこと。

両統(りょうとう)

1,二つの血統。

2,両方の皇統。

迭立(てつりつ)

かわるがわる地位につくこと。

 

今回の疑問は「鎌倉後期」の部分です

今年2024年の大河ドラマ『光る君へ』を解説した様々な動画で、平安時代でも「両統迭立」があるように話しています

  • じゃあなぜ、広辞苑では鎌倉時代についてしか書いてないのか
  • そもそも両統迭立って何が起きてるんや
  • ってか、両統迭立って何なんや
  • 複数あるなら、日本の歴史上何回あったんや

これらについてせっかくなので勉強した話をまとめていこうと思います

受験に役立つかは知らん

 

結局、両統迭立ってなんやねん

ネットで調べると、やはりwikipediaが頭の方に出てきます

間違いが多いらしいという点でwikiの引用は好きではないですが、ざっくりばっさり理解するには都合がいいと思うので、そういう意味で少し使わせてもらいます

両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。

両統迭立 - Wikipedia (2024-02-21)

まあまあ間違ってなさそうなので、広辞苑の各言葉の意味的にも良さそうなので、本ページでは、これを両統迭立の定義として考えたいと思います

 

両統迭立は何回あったのか

wikiによると、両統迭立は3回

1,平安時代前期

2,平安時代中期

3,鎌倉時代

3は、一番有名な、かの南北朝時代とも称される持明院統大覚寺統の戦い

では、残りは

1は桓武天皇の子供3人の話

2は村上天皇の子供2人の話

 

では次に、天皇家皇位継承図を見るとどうか

 

まず、1番の桓武天皇の子供の話だが、家系図だけで見るとただの兄弟継承に見える

そもそもこれくらいの継承なら、何度も起こってる

仁徳天皇の子供とか、継体天皇の子供とか、欽明天皇の子供とか、鳥羽天皇の子供とか、後水尾天皇とか、

では、これらと何か違う点があるのだろうか

確認してみようと思う(後述)

 

続いて、2番の村上天皇の子供の話だが、家系図だけ見ると両統が迭立してそう

とりあえず勉強してみる価値がありそう

 

3番は言わずもがな

だが、家系図を見ると面白い

一般的に南北朝時代は、後嵯峨天皇の子供である後深草天皇持明院統と、亀山天皇大覚寺統に分かれるという

だが、後嵯峨天皇の祖父の後鳥羽天皇あたりから、既に両統が迭立してそうな家系図に見える

つまり、南北朝を知るためには、南北朝の前から知る必要がありそう

これも調べる価値がありそう

 

さて、wiki以外の情報で言うと

まずは、舒明天皇の子供であるところの天智天皇天武天皇兄弟の話

交互に皇位に即いてるわけじゃないけど、行ったり帰ったりしてるので、これも勉強になりそう

 

ってわけで、両統迭立が何回あったかはよく分かりません

もしかしたら定義次第な気もします

乞うご期待

 

両統迭立は実際何回あったのか(検証)

では、前項で挙げたそれぞれの事象を少しずつ、調べられる範囲で調べてみようと思います

仁徳天皇の子孫

調べるとは言っても、仁徳天皇の事績なんてものは記紀にしか残ってないので、古事記を読んでみましょう

系図をたどって即位の順番だけ見ると、あたかも「允恭(いんぎょう)天皇の血統」が最初は皇位を握っていたけども、、清寧天皇の後から「履中天皇の血統」が復活したように見えますが、古事記曰くそうではないらしい

 

まず履中→反正→允恭の流れは、その当時初例となった兄弟での皇位継承

それぞれ早めに亡くなったのが兄弟継承となった由来っぽい

ただ、やはり先例は親子継承

なので、19代允恭天皇の後は息子の安康天皇。そして、雄略天皇

 

ただ、この雄略天皇がやっかい

どうも権力争いのために、自分の皇位を脅かしそうな人は片っ端から殺しまくったらしい

ということは、当然允恭天皇の血統の人間は極端に減ってしまう

なので、雄略天皇の子供の清寧天皇がなくなった時に、彼に子供がいません。一族にもいません。

なので、遡って辿るしかない。

 

偶然、顕宗(けんぞう)天皇とかが、雄略天皇の暴虐から逃げるためにどこかへ隠れていたのが見つかり、践祚へとつながる

 

ようやく皇位を奪い返したという印象とは違うし、両統迭立とも印象は違う

ここは当てはまらず

*1

 

継体天皇の子孫

継体天皇の子供世代は、とても分かりやすい

何かというと、皇后の子供に継がせたいってそれだけ

おそらくは、安閑・宣化は中継ぎ的なイメージで、欽明が成人するのを待ってたんでしょう

 

なぜそこまでするのか

皇后の手白香皇女が、男系では仁賢の血統。女系では允恭の血統。

つまり、男系では遠く遠く離れた継体天皇だからこそ、女系で近い天皇の血筋を補完しようとしている*2

だからこそ、せっかく作ったそのルートを残すために、欽明に皇位を継がせたかったんだと思う。

 

ということで、継体天皇の子供世代も両統迭立とは違うイメージ

むしろ、歴代でも珍しい男子の中継ぎ説すらある*3

欽明天皇の子孫

第15代の応神天皇から、ものの見事に第33代推古天皇まで勉強してきました

そして残念なお知らせですが、このあとの舒明天皇の子供世代も勉強予定

ほとんど天皇の通史を追ってるみたいになってますが、それはそれとして

 

古代の天皇家は、天皇家とほど近い近親者から結婚相手を、特に皇后を持ってくることが多いらしい

例に漏れず、まずは敏達天皇は母親が宣化天皇の娘。嫁(皇后)は異母妹の推古天皇

おそらく正統候補だったはずが、結構すぐに亡くなったらしい。

 

用明天皇は、母親が蘇我稲目の娘。当時の貴族のトップクラスの高級官僚。嫁(皇后)は欽明天皇の娘。

平安時代を知る我々から見れば十分エリートコースだが、おそらく当時は血統的に敏達天皇に劣る。

 

崇峻天皇も、母親は蘇我稲目の娘。嫁はパッとせん大伴氏*4

しかも生涯もなんか不憫。

日本史上、唯一正史に明記された「臣下に殺された天皇」。

 

疑問点は3つ。

  1. なぜ敏達天皇の息子の押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)が皇位を継いでないのか。
  2. わざわざ、摂政を置いてまで推古天皇が即位した理由は。
  3. そしてなぜ聖徳太子皇位を継ぐわけではなく、摂政だったのか。

1,なぜ敏達天皇の息子の押坂彦人大兄皇子皇位を継いでないのか。

詳細は不明だが、どうも当時の有力貴族の蘇我氏の意向が強かった可能性。

つまり、蘇我氏の血が入ってない押坂彦人大兄皇子に即位されると、せっかく天皇の息子たちに嫁にやった娘たちが意味がなくなる。

ということで、何かしらの抵抗があった可能性。

やっぱ外戚として実権を握ろうとするんかね、古代から。

2,わざわざ、摂政を置いてまで推古天皇が即位した理由は。

推古天皇は、当時の最高権力者の蘇我馬子の姪。

そりゃ、天皇に推されますよ。

 

でも、これまでずっと男系男子だった天皇に、なぜ女性が立ったのか。

とてつもない不吉に、女帝が登場します。

 倉山満. 嘘だらけの日本古代史. 扶桑社,2023,167ページより引用

これは、とてつもない不吉に対抗するために、女帝を出した可能性。いわゆる、窮地だからこそ新儀で何とか乗り切ろう。です。

初の女帝を、当時の人が推古天皇だと思うかと言われると、疑問を呈さざるを得ませんが、まあ嘘も方便なんでしょう。何かと理由をつけて蘇我氏が実権を握ろうとしただけなんだと思います。

先代の崇峻天皇の暗殺も、蘇我氏の差し金みたいですしね。

3,そしてなぜ聖徳太子皇位を継ぐわけではなく、摂政だったのか。

これは少し論点がずれてるようです

というのも、聖徳太子推古天皇元年に皇太子になってるんですね。

もう将来の天皇ルートまっしぐら。

のはずでした。

 

皇太子になったのが、19歳。

古代当時では、30歳くらいは人生過ごしてからじゃないと天皇になれない風潮だったらしいです。

というわけで、しばらく修業期間。

つまり、推古天皇聖徳太子への中継ぎだったんでしょう。

聖徳太子から見れば、父方の祖母が蘇我氏なので、これには、蘇我馬子もニッコリ。

 

と思いきや、聖徳太子が、即位を前に亡くなる。この当時にはまだ終身天皇制で、譲位の概念がないため、推古天皇が亡くならないと聖徳太子が即位することはなかったんですね。

押坂彦人大兄皇子は既に表舞台から消えている。

 

次の世代の候補は、3人。

押坂彦人大兄皇子の息子の舒明天皇聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)。のち皇位に就く孝徳天皇

なぜここから、舒明天皇が選ばれたのかは分からん*5けど、ここに来て初めて、臣下の意見が皇位を左右させるようになってる部分もあるっぽい。

敏達天皇の子孫

上から続く話

即位してから13年で舒明天皇の死去してからの話

 

次世代の選択肢は孝徳天皇(前回も選択肢に入ってた)か、古人大兄皇子

前者は蘇我系を排した血統

後者は蘇我系がバンバン混じった血統

おそらくその点で争いが起こり決定しきれなかったっぽいが、中継ぎとして皇極天皇が即位*6

まあそんなこんなで中継ぎを頑張るが、大臣には蘇我氏を抜擢してる辺り、ズブズブにも見える。

 

皇極天皇4年。西暦で言うところの645年。かの有名な乙巳の変が起きる。

蘇我氏滅亡の大事件。

この事件の責任(?)的な感じで皇極天皇天皇をやめる*7

こうして次に誰を皇位に置くか。

毎度選択肢に出てくる孝徳天皇がようやく即位。

乙巳の変の実行者である天智天皇はまだ年齢的に適さなかった。

 

だが、正統を考えると、舒明天皇の息子がいる以上、やはり天智天皇が次期天皇と見える。

ということは、孝徳天皇すら中継ぎに見える?

だからなのか、天智天皇も自分の立場が分かってるのか、結構やりたい放題してる

ようやく即位した孝徳天皇が凄いいじめられてる*8

失意の中、亡くなる

 

次はようやく天智天皇と思いきや、皇極天皇斉明天皇として重祚

譲位どころか、重祚の初例もこなしてる

そんな初例をせなあかんような事態か? 天智天皇も28歳やけどまだダメか。

しかしおかしいのは、さらに斉明天皇が亡くなってからの話

 

斉明天皇没年は西暦でいうところの661年

天智天皇の即位は西暦で言うところの668年

7年の猶予がある

 

ここの理由が不明だが、斉明天皇重祚のことも考えると、何かしら即位に対して後ろ向きなところがある気がする

 

ということで、ここでも両統迭立とは違うイメージ

あくまで、天智天皇という正統ルートへの回り道に過ぎなさそう*9

舒明天皇の子孫

部分的に見ると

弘文天皇(天智系)→天武天皇(天武系)→持統天皇(天智系)→文武天皇(天武系)→元明天皇(天智系)→元正天皇(天武系)

と、天智系と天武系が交互に来てます

なぜこれを両統迭立と言わないのだろうか

しかしまあ、この近辺だけで五方七代の女性天皇。いったい何が起こっているのか。

 

まず天智から弘文は、普通の父子継承

しかしここがまず色々ややこしい

そもそも天智天皇の皇太弟として天武天皇がいた*10

なのに、天智は息子に皇位を継承したいとした

だから、天武はそれを飲んで弘文天皇が即位

 

その辺のグダグダが発展して、いわゆる壬申の乱が勃発*11

弘文は負けて自害

天武が即位

 

天武天皇10年に、次男の草壁皇子が皇太子になる*12*13

天武死去後、若すぎたため、中継ぎとして母親・持統天皇即位

しかし、その後すぐに草壁皇子が若くして亡くなる

中継ぎ・持統天皇はパニック。とにかく自分の子供に皇位を継がせたい気持ちでいっぱいだったんでしょうね。

皇位のライバル格だった、高市皇子(天武長男)が早世、大津皇子(天武三男)が謎の自害でいなくなると、軽皇子がまだまだ14歳と若すぎるのに、ここぞと言わんばかりに譲位

文武天皇が即位し、上皇の初例として権威をふるう*14

 

しかしまた早世。文武天皇即位して10年。25歳で亡くなる。

息子の首(おびと)皇子が7歳でさすがに若すぎて、また中継ぎ策。

首の母親であり、天智天皇の娘の阿陪皇女が即位。元明天皇

 

首のライバル格を次々に臣籍降下させながら、無事元服時期*15になると、皇太子とするためにあえて譲位。

文武天皇の姉の元正天皇が即位し、予定通り首皇子立太子元明天皇上皇となる*16

10年後、無事予定通り元正天皇は譲位。甥の首皇子聖武天皇として即位。

 

聖武天皇の息子は2人

長男の基皇子は産まれて1年で早世。

次男の安積親王は母親が県犬養家で、藤原家に嫌われてた可能性。まあ結局早くに亡くなるんですけどね。

で、皇太子になったのが、史上唯一の女性皇太子である、阿倍皇女。

彼女の母親は、藤三娘*17こと、光明皇后。史上初めて人臣から皇后になった人。

ってことはやはり、藤原家の意向が強かったんやろか。

しかし、ここまでやってしまうと将来の天皇候補がいなくなるけど大丈夫なんかね? って思わんかったんやろか。

 

阿倍皇女が孝謙天皇として即位するが、その時皇太子とされたのは、新田部親王天武天皇第十皇子)の次男の道祖王。しかし、諸処の理由で廃太子

んでそこで次に皇太子になったのが、舎人親王天武天皇第六皇子)の七男の淡路廃帝こと淳仁天皇

 

なぜ彼らが目されたのかよく分からん。

道祖王に関しては記述は探せてないので、いろんな意味で不明。

淡路廃帝藤原仲麻呂(のち改名し、恵美押勝)に推挙されたとかどうとか。

 

予定通り、淡路廃帝が25歳になって即位*18孝謙天皇は譲位するも、実権を握る。

この実権を握るが厄介。

弓削道鏡と懇ろになると、それを咎め淡路廃帝を文字通り淡路へ配流。皇位も剥奪して、自分が重祚する(称徳天皇)。

もうぐちゃぐちゃ

 

さらにこの称徳天皇が錯乱の嵐で、親王や王を粛清しまくったせいで、後継者がホントに居なくなってくる。アホ。

しかし、アル中を装うことで粛清を逃れたのが志貴皇子天智天皇第七皇子)の息子の白壁親王。賢い。

この人が粛清されてたらどうなってたんやろね。こわ。

 

というわけで、いろいろ長ったらしく調べてみましたが冒頭の部分

部分的に見ると

弘文天皇(天智系)→天武天皇(天武系)→持統天皇(天智系)→文武天皇(天武系)→元明天皇(天智系)→元正天皇(天武系)

と、天智系と天武系が交互に来てます

は認識として間違ってる。

つまり、持統天皇元明天皇は、父親こそ天智天皇ですが、息子は天武天皇の血を継いでおり、それを何とかして次世代に繋いでいこうとしていただけで、天智系としての認識ではなさそうです

これは両統迭立してる感じじゃなさそうですね

桓武天皇の子孫

何度目か分からん兄弟継承がされてます

生まれ年が若干不明な人もいますが、おそらく

長男:安殿親王平城天皇)(774年 - 824年)

次男:伊予親王(783年 - 807年)

三男:神野親王嵯峨天皇)(786年 - 842年)

四男:大伴親王淳和天皇)(786年 - 840年)

五男:葛原親王(786年 - 853年)

六男:万多親王(788年 - 830年)

 

まず、桓武天皇の即位時に皇太子には、弟の早良親王がたつ。

しかし、早良親王廃太子*19。丁度いい年になっていた安殿親王が皇太子となる。

桓武天皇が亡くなると、同日即位。平城天皇

しかし3年後体調不良により譲位。皇太子を、10歳の息子である高岳親王とする。天皇には弟の神野親王が即位*20嵯峨天皇

ここの流れなんか、今後見るであろう「冷泉VS円融」と同じ色を感じる。

 

ってわけで、兄弟喧嘩の延長みたいなことが起きる(藤原薬子の変)。

これにより、高岳親王廃太子桓武天皇四男の大伴親王立太子

 

嵯峨天皇が譲位。大伴親王が即位。淳和天皇

皇太子は、嵯峨天皇の息子の正良親王

 

10年ほど天皇をやったら、譲位。正良親王が即位。仁明天皇

皇太子は、淳和天皇の息子の恒貞親王

 

このあたりで、絶大な力を持っていた嵯峨上皇が亡くなると、承和の変が勃発。恒貞親王廃太子

仁明天皇の息子の道康親王立太子

 

というわけで、ここの世代はよくよく見ると両統迭立の可能性を感じたが、このあたりは藤原氏がいい感じに力を持ってき始めた結果、なんやかんやの変が勃発して、結果的に1本に正統が絞られたというイメージ感。

結果だけ見ると、それはそれでよかったかもしれんね。変に両統迭立するよりかはね。

仁明天皇の子孫

ここはあまり両統迭立感はないが一応

と思ったが意外と面白い

 

まず順当に、長男の道康親王文徳天皇として即位。

その年の秋に生後8か月の四男・惟仁親王立太子

本当は長男の惟喬親王を皇太子にしたかったらしいが、藤原氏の圧力とあとは単純に母親のランクの問題かと思うが断念。

さらにのち、惟喬親王立太子を条件に譲位しようとするが叔父である源信の諫言を受けて自重。これが成ってたら、両統迭立の可能性はあったよね。源信ナイスー!

 

んで、文徳天皇が急死。悲しむ暇もなく清和天皇が即位。当時9歳*21

清和天皇が突如譲位。理由は分からん。女御を母に持つ中で長兄の貞明親王が即位。当時9歳の陽成天皇

 

問題はその次。

陽成天皇の関与が疑われる殿上での殴殺事件が起きる。被害者は陽成天皇の乳母子・源益。

天皇による殺人事件(の疑い)ということで、大騒ぎの宮中。

そこで摂政の藤原基経が動く。

まず、陽成天皇の兄弟筋は、乱行に懲りた(?)基経が拒否。これは、むむむ。陰謀めいてますか?

というわけで、陽成天皇の曾祖父の仁明天皇の時に一度、廃太子とされた恒貞親王にアタック。しかし、出家済みで拒否される。

ということで、仁明天皇の第三皇子の時康親王にアタック。見事、光孝天皇として即位。御年54。

臣下の要望で退位したという点で、皇室としてはとんでもない先例とされてしまった。幼帝*22というのが足を引っ張ったか?

 

この次もいろいろキモイ動向。

光孝天皇としては、正統は陽成天皇の弟筋に戻ると思い、子供たちを残らず臣籍降下

したものの、藤原家内での権力争いのせいでなかなか後継者が決まらず。

ナンテコッタイな中、光孝天皇が病に侵され始めたので、流石にやばいと思って、息子の源定省皇籍復帰させ、定省親王が即位。宇多天皇

元皇族の皇籍復帰&天皇即位の先例と化した。

 

そして、宇多天皇の息子の源維城は、父の即位に伴って皇族に列する&親王宣下

12歳で元服&即位。醍醐天皇

史上唯一の旧皇族(生まれた時点で臣下だった人)身分から天皇になった人。

 

まあ当初予想した通り、両統迭立ではないが、かなり面白い時代ではあった。

先例のオンパレード。

村上天皇の子孫

定義だけで言えば、ようやく2つの血統が交互に天皇に即位してそうな系図がきました

 

醍醐天皇の皇太子は最初、第二皇子の保明親王だったが、早世。

というわけで、皇太孫として、保明親王の子供の慶頼王を立てたが、こちらも早世。*23

醍醐天皇も危篤になり、しゃあなしで中宮の息子である、第十四皇子の寛明親王が即位。朱雀天皇

 

で、朱雀天皇も皇太子を立てようと思ったが、まあホントに色々とゴタゴタが起き過ぎた*24&病弱らしいという理由で、親王に恵まれず。

23歳で譲位。弟の成明親王が即位。村上天皇*25

 

村上天皇親王の内、中宮・藤原安子*26の皇子が憲平親王為平親王、守平親王の3人。

まずは、その中で長兄の憲平親王が即位。冷泉天皇

 

ここからは、藤原氏の陰謀説が結構多いが、冷泉天皇系には「気が触れている」という話が残されている。安易に信じるわけにはいかないが、とにかく藤原摂関家の力が強すぎる。

 

まず、冷泉天皇の皇太子問題。まだ子供がいなかったので、候補は為平親王か守平親王。このうち、為平親王の嫁の親父が源高明で、これを藤原家が嫌ったため、弟の守平親王立太子

そして冷泉天皇が譲位。理由は不明。守平親王が即位。円融天皇

 

で、円融天皇即位の頃には冷泉天皇の子供(師貞親王)が産まれた直後くらい。なので、周りの目は「円融天皇は、師貞親王が成人するまでの中継ぎに過ぎない」との見方。

しかし本人としては、自分の子供に皇位を継がせたいにきまってる。

つまり、冷泉VS円融の、皇位継承の戦いが勃発。

しかし、これも単純には進まない。何といっても厄介なのは、摂関を牛耳る藤原家。結局はここに委ねられるが、果たして。

 

まず、円融天皇が動く。自分の皇子である懐仁親王立太子を条件に譲位。師貞親王が即位。花山天皇

 

次に右大臣・藤原兼家が動く。自分の外孫である懐仁親王を早く天皇にするために、陰謀を働く。これが俗に有名な「寛和の変」。

無事、花山天皇が譲位&出家。懐仁親王が即位。一条天皇。当時6歳。

一条天皇に当然だが子供はいない&一条天皇に兄弟がいないので、皇太子には、花山天皇の弟の居貞親王がつく。

しゃあなしで、冷泉系に皇統が戻る危険性を孕んでた。

 

一条天皇は在位25年と比較的長く、崩御の直前に譲位。居貞親王が即位。三条天皇

そして誰を皇太子にするか。

候補は2人。

1人目は三条天皇の皇子の敦明親王。母は藤原兼家の娘の藤原超子。

2人目は一条天皇の皇子の敦成親王。母は藤原道長の娘の藤原彰子

時の権力者は藤原道長

ということで、とてつもなく自然な流れで敦成親王立太子

三条天皇からすると、なんで自分の子供に皇太子させれんねん! ってぶち切れ。だからこそ、条件を突き付けた。

 

道長からすると、三条天皇には敦成親王が成長し次第早くやめてほしい。邪魔だから。

だからこそ、三条天皇はそこを狙った。敦明親王立太子する代わりに譲位すると宣言。

しかしケンカする相手が悪かった。

 

一度は条件を飲んだ道長

敦成親王が即位。後一条天皇敦明親王立太子

そして、三条天皇が譲位後1年で崩御すると、敦明親王に圧力をかける道長。こわ。

一方、圧力に耐えきれなくなった敦明親王。自ら皇太子を辞退。

後一条天皇の弟の敦良親王立太子

 

ただやはりここは天皇家の意地というかなんというか。決して藤原氏に振り回されただけではないというか、血統を残す努力だけはしてて。

敦良親王は、三条天皇の娘の禎子内親王と結婚。

後一条天皇が子供を残さず崩御し、敦良親王が即位。後朱雀天皇

その後、後冷泉天皇*27と経て、後三条天皇*28皇位が移る。

後三条天皇の即位により、冷泉系と円融系が統一された。

 

ということで、争いながら交互に天皇を輩出していた冷泉系と円融系。

これは両統が迭立してるっぽい。

鳥羽天皇の子孫

まず白河天皇

即位タイミングで、皇太子に弟の実仁親王がいました

これはどうも先代で、父親の後三条天皇の意向があった?

しかし、実仁親王が亡くなる

すると、本来は後三条天皇の遺言で、次弟の輔仁親王のはずだったんですが、ここぞと言わんばかりに、息子の善仁親王立太子

そしてその直後に譲位。善仁親王が即位して、堀河天皇

ここから約40年、上皇生活。なんてズルい。

 

そしてここから歴史が動く。

白河天皇が、上皇として政治を切り盛りしようとする。いわゆる院政の始まり。

これが藤原北家による摂関政治の終了の転機になったようですね。

藤原からすると、白河天皇許すまじ?

 

さて、実権をモノにした白河天皇は、今まで藤原家に握られていた皇位も我が物にする。好きなように皇位につけていきます。

まずは、上述の通り、堀河天皇。続いて鳥羽天皇

 

その次が問題でした。

崇徳天皇の即位。

これがどうも難あり。

宮内庁の「天皇系図」で、崇徳天皇鳥羽天皇の息子とされています。そして、母親は藤原璋子。通称、待賢門院。

こいつが厄介。この待賢門院の実父・藤原公実が7歳の時に亡くなっており、養父・白河法皇に養われる。つまり、崇徳天皇の外祖父は、治天の君である白河法皇

 

白河法皇としたら、中途半端に権力を握ってしまう鳥羽天皇よりも、外祖父として口出ししやすい崇徳天皇の方が可愛いんでしょうね

産まれて早々に、鳥羽天皇は譲位させて、崇徳天皇に即位させる。

鳥羽天皇は腹立たしいでしょうね。なんでやねん! 俺天皇ちゃうんかい!と

 

だからこそ、崇徳天皇も嫌いになりますわね

治天の君である白河法皇が亡くなってから時代がさらに変わる

その時生きている上皇鳥羽天皇だけとなり、難なく治天の君鳥羽天皇にとって代わる

 

ここで考えたのが鳥羽上皇

まず、邪魔なのが崇徳天皇。これをどうどかすか。

そして、そのあと誰を天皇にするか。そりゃ自分の子供を立てたい。

これを一掃するアイデアが、躰仁親王の養子問題。

 

つまり、崇徳天皇としては、ただ単純に譲位した時に、その次の皇位に自分の子供を立てれないと治天の君へのルートが閉ざされると不安視。

白河と鳥羽と、どちらも天皇の父親であったことが先例となっているように思ったんでしょうね。

そんな折、「(鳥羽天皇の息子であり、崇徳天皇の弟の)躰仁親王を養子に迎えてから譲位。その後、躰仁親王が即位すれば、君も将来治天の君だね」との提案を鳥羽上皇から受ける

そりゃ嬉しいでしょうね

「はい分かりました」と、喜び勇んで譲位する。

しかし鳥羽天皇の罠発動。譲位の宣明に「躰仁親王は皇太弟」との表記。

「お前は弟に皇位を譲っただけじゃい!バカめ!」と鳥羽天皇にはめられてしまった。

これにて治天の君へのルートが閉ざされた。かわいそう。

近衞天皇即位。

*29

 

近衞天皇が子供を授からずに亡くなる。

次代は誰にするかでまたいざこざする。

候補は雅仁親王だったが、今様*30にハマり過ぎてて資質がどうもって噂に。

というわけで、雅仁親王の息子の守仁親王を考えたが、色々な理由(いろんな説あり。けど、こんなもん複合的な理由で色々決めるわけで、1つ何かしら強い理由があったとは考えにくいから、諸説ということでお茶を濁す。)から雅仁親王を即位させる。後白河天皇即位。

もちろん皇太子は、守仁親王

 

そのすぐあと、鳥羽上皇が亡くなる。それにより、「保元の乱」が勃発。

これを詳しく書くと、それだけで一本の記事になるのでそれはまたそのうち勉強しよう。

とにかく、保元の乱によって崇徳上皇が讃岐へ配流が決定。重仁親王仁和寺にて出家。

これにて崇徳上皇とのいざこざは終了。無事、鳥羽天皇が目指した、白河法皇ルート遮断に成功。

 

治天の君の立場をかけた、白河法皇鳥羽上皇の戦いが現れた時期ですね

もう少しで両統が迭立したかもしれんね

 

後白河天皇の子孫

後白河天皇は3年ほど皇位にいてから、皇太子の守仁親王に譲位。二条天皇が即位。

そしたら次は「平治の乱」が勃発。これも今回は省略。

しかしこれがまた厄介なことにつながる。

 

表面上は平治の乱が落ち着き、後白河上皇二条天皇が並立状態とされたが、両者ともにウザい相手には違いない。

なので、まず後白河上皇が動く。後白河の第9皇子の憲仁親王を皇太弟にたてようとする。

それに危機を覚えたのは二条天皇

当然のようにそれに先んじて、息子の順仁を立太子。即日譲位&即位。六条天皇即位。

 

しかし、すぐに病気で二条上皇が亡くなる。

そうなれば後ろ盾も何もない六条天皇皇位後白河上皇の意のまま。

当然のようにすぐに譲位させ、憲仁親王が即位。高倉天皇となった。

これにより、六条天皇は歴代最年少の皇位への即位式&歴代最年少の上皇。うーん、傀儡。

 

さてその後、平治の乱で力を持ったのが平清盛。彼は武士で初めて太政大臣になりました。でもすぐやめる。「俺に冠位は要らん。だって既にすげえもん」的な?

そんな清盛は、高倉天皇中宮に娘の徳子を入内させる。そして生まれたのが言仁親王

なので、清盛は自分の孫に天皇になってほしかった。

まず、後白河天皇を幽閉。高倉天皇を譲位させて、言仁親王が即位。有名な安徳天皇

 

ですが、これも有名な話。治承・寿永の乱*31の始まり。

そしてここから同時並行に考えなければいけない点が発生します。

ますは、平氏側の視点。

哀れ安徳天皇は、平氏に連れられ、壇ノ浦で三種の神器と共に海の底へ。「海の底にも都は、ありまぁす!」。この時1585年。

そして、この時にどうも、守貞親王東宮として平氏に連れ去られていたらしい。

 

逆に、後白河上皇の視点。

若い帝や東宮を連れて行っても、上皇たちを連れて行くのはダルすぎるというか、あまり意味をなさないので、後白河上皇は当然のごとく置いていかれる。

それを目を付けた(?)後白河は、なんともまあ見事な新儀を発動。「俺が治天の君なので、俺の決定が全てです! 三種の神器はないけど、尊成親王が次の天皇です!」と宣言。後鳥羽天皇。これが1583年(?)。

 

さてつまり、両統迭立どころか、瞬間的に2人の天皇が同時に存在していたことになります。

 

まあものの見事にぐちゃぐちゃな皇位継承ですが、ここに来て遂に武士が出てきました。

次の項も乞うご期待。

後鳥羽天皇の子孫

後鳥羽天皇といえば1221年の承久の乱です

もちろんの様に皇位継承にも関わってくるんですが、詳細はいつか書きたい

今回はまあ適度に

 

1192年に後白河上皇崩御すると、その時点での存命皇室関係者は、12歳くらいの後鳥羽天皇守貞親王のみ。ということで実権は、関白・藤原兼実が握る。

詳細は分からんが、建久七年の政変(1196年)により、兼実が失脚。次に権力を握ったのは、為仁親王の外祖父・源通親

 

源通親と後鳥羽の双方の意見の一致により*32、後鳥羽の譲位。為仁親王が即位。土御門天皇

 

その後の権力の移り変わりがいまいち分からんが、まず後鳥羽上皇の寵愛の相手が源在子(土御門天皇の母)から、藤原重子(守成親王の母)へ移っていた?

いやまあ、だからなんやねんと思うんだが、後鳥羽上皇の自立心が強くなっていって、源通親の言うことを聞かなくなってきたあたりで、タイミングよく(タイミングよすぎ?)通親が死去。

名実ともに治天の君として君臨する。

 

1210年に土御門天皇の譲位。皇太弟の守成親王が即位。順徳天皇

 

ここから先も不透明だが。

1221年4月。順徳天皇が譲位。どういう作戦か不明だが、責任逃れとか? 皇太子の懐成親王が即位。仲恭天皇

1221年5月。承久の乱勃発するも、朝廷側の敗北。鎌倉幕府は1,天皇の廃位。2,二上皇の配流。3,茂仁親王の即位。の3条件を突き付けた。

1,天皇の廃位

これは、処理としては当然。齢4歳とは言え、責任のつけようがないとはいえ、しゃあない。

2,二上皇の配流

院宣を発した後鳥羽上皇はもちろん、どうも積極的だったらしい順徳上皇。そして父が配流されるのに自分は京都に残れないとして、一緒に土御門上皇も自分から配流。

3,茂仁親王の即位

これは異例中の異例が起きた。らしい。

まず、父・守貞親王後鳥羽上皇の実兄)を治天の君に据える。天皇に即位したことのない治天の君爆誕後高倉院)。

そして、その治天の君から、三種の神器を茂仁親王に授けて即位。後堀河天皇

これは、幕府に対して弓引いた後鳥羽上皇の血筋から次の天皇を立てたくないという点から生み出された苦肉の策だったと思われる。

 

その後は、後堀河天皇院政を狙って譲位。皇太子の秀仁親王が即位。四条天皇

しかし、後堀河上皇は譲位後すぐに崩御

そして四条天皇も12歳という若さで謎の崩御

もちろん子供はいないし、兄弟も居なかった。

 

後高倉院の血筋で候補者が居なくなり、しゃあなし後鳥羽上皇の血筋から、土御門上皇の子供の邦仁王*33を即位させる*34後嵯峨天皇

 

というわけで分かりやすく武士の意向がぐちゃぐちゃ入り込んでいた模様。

朝廷と幕府の争いが混沌としてた時代ですね。

まあそれでもなお、皇室自体は守られてるって言うんだから面白い。

普通の海外の国なら、承久の乱の後、皇室乗っ取られてるよね。わざわざ後高倉院治天の君にしないよね。

 

次項はいよいよ南北朝に入っていくはず。

後嵯峨天皇の子孫


ようやくこの項がこのページのメインテーマとなるはず

長かった

あまりにここに来るまで長かった

まさか、第15代応神天皇からここまで全部の天皇を見ることになるなんて予想してなかった。

でも、ここさえ越えればあとはそこまで滅茶苦茶な系図じゃないと思うので、最後のひと踏ん張り。

 

まず、後嵯峨天皇から、中宮の嫡子の久仁親王へ。後深草天皇。即位の10年後、恒仁親王が立太弟。本当は後深草天皇の息子を立太子させたかったと思うのだが、まだまだ幼帝だったために子供はしばらくおらず、一時凌ぎ的に皇太弟を置いたのか?

この一時凌ぎが必要だった理由として、いわゆる元寇がある。詳しく語りだすと時間かかり過ぎるのでさらっと行くが、どうも外国への対抗策として武強さがある恒仁親王を立てたかったのか? 

立太弟の翌年に即位。亀山天皇。1267年に息子・世仁親王が産まれると、熙仁親王後深草上皇の息子)を差し置いて立太子

後嵯峨上皇崩御後、亀山天皇譲位。世仁親王が即位。後宇多天皇。翌年、幕府の恩情で熙仁親王立太子*35

亀山上皇の元、国難元寇を乗り切る。

後宇多天皇が譲位。熙仁親王が即位。伏見天皇*36

ここでようやく、後深草系は皇統を取り戻した感じ。

 

伏見天皇の子供の胤仁親王が2歳で立太子

10歳の時点で、伏見天皇は譲位。胤仁親王が即位。後伏見天皇

 

ただそろそろ黙ってないのが、亀山系。幕府に擦り寄って、後宇多上皇の息子の邦治親王立太子させることに成功。

邦治親王が即位。後二条天皇

 

しかし、後二条天皇が早世。後伏見上皇の息子の量仁親王がまだ幼かったため、後伏見上皇の弟の富仁親王が即位。花園天皇

この花園天皇の時代に、幕府と朝廷で「文保の御和談」が明文化。実質形作られていた、後深草系と亀山系から交互に天皇を立てるということを示す。

というわけで、花園の次は亀山系に皇位が移ることが確定した。

 

ただ、ここも不透明で、立太子されたのは、後二条上皇の嫡嗣の邦良親王ではなく、後二条上皇の弟の尊治親王

どうも、文保の御和談のせいで嫡子継承の先例すらもぐちゃぐちゃになってる? だから、変なところから立太子の声が上がったくさい。

 

さて、尊治親王が即位。後醍醐天皇。しばらくのち、量仁親王立太子

そして後醍醐天皇が厄介of厄介。

天皇親政を謀るために、鎌倉幕府の打倒を計画。するも情報漏洩し、失敗*37

京都を脱出したので、幕府はこれを廃位。量仁親王即位。光厳天皇。のちに後醍醐天皇隠岐島へ流す。

 

正直こっから先は、皇位継承の話として一覧で書くには内容が濃すぎる。いろいろと事件とか裏切りとか起き過ぎてて、処理しきれん。

 

一先ず書けるのは、醍醐天皇三種の神器をもって京都を闘争しており、落ち着いたころに隠岐島を脱出し挙兵。光厳天皇を否定し、廃位を否定し、亀山系の嫡流だったはずの邦良親王ではなく、自分の息子の義良親王皇位を譲る。後村上天皇

この瞬間に天皇が2人同時に存在することとなる。

南北朝時代の始まり。

 

ここからは両血統の争いが続くが、皇位の奪い合いとは少し違うので、割愛。

 

また、後深草天皇の血統を居住地から「持明院統」。

亀山天皇の血統を、出家後に院政を行った場所から「大覚寺統」と呼ぶ。

朝廷は持明院統が京都、大覚寺統が奈良にあったことから、それぞれを北朝南朝とも呼ぶ。

三種の神器南朝が保持*38していたことから、現在正統とされているのは南朝であり、北朝天皇は北1~北6まで記載するようになっている。

 

光厳天皇の子孫

一応、北朝にはバックに足利家の幕府が付いており、南朝には足利家に負けた御家人たちが擦り寄るような形で存在してたっぽい。

ですが、南北朝としての話はいったんおいておいて、北朝内での皇位の継承について触れていきたいと思います。

 

ちょっとスタートはいまいち不明ですが、まず光厳天皇が譲位。息子の興仁親王がまだ幼かったため弟の豊仁親王が即位。光明天皇

その後、興仁親王が即位。崇光天皇。そんでもってさらに詳細不明だが、直仁親王立太子

 

しかし大事件。「正平一統」と呼ばれる、崇光天皇の廃位と、直仁親王廃太子が決定され、事実上の北朝の解体が決定。

そして、北朝の主だった皇籍の人間*39を、南朝側が拉致。

それに困った北朝側(というか、幕府)。崇光天皇の弟の弥仁親王を即位させる。後光厳天皇。これがまたとんでもない方法を思いつく。

 

まず三種の神器はない。でもこれは、光厳天皇の時にもやってる。最悪セーフ。

次に、即位を宣言できる上皇がいない。なので、光厳天皇の母親の元民間人の西園寺寧子治天の君にして、弥仁親王を即位させる。

もうこうでもしないと北朝が続けれんかったかと思うと必死。

 

さて、南朝側に拉致されてた人たちが、南朝の財政難に従って帰京。崇光上皇が自分の息子の栄仁親王立太子を迫るが、後光厳天皇は幕府の支持を取り付け、後光厳天皇の息子の緒仁親王立太子

しかしこれで諦めないのが皇室の歴史。栄仁親王は何とか皇位を得ようと画策。どうにか所領を確保し、京都の伏見に居を構える*40

 

さて、称光天皇が病弱なため、子供も残さず早世。

それを事前に危惧していた周囲はいろいろ画策。というのも、せっかく後小松天皇の時に南北朝合一したのに、蒸し返されそうになることが予想されたから。

というわけで、後小松上皇が、彦仁王を養子にとり、そのまま立太弟。崩御後、即位。後花園天皇

 

ちなみに、後花園天皇の弟の貞常親王は、世襲親王家としての伏見宮を号し、天皇家と水魚の関係となることを期待された。

この伏見宮家が、1947年に皇籍離脱した11宮家の祖となるのはまた別のお話。

また、南朝側の宮家は4家存在したが、室町時代中に全て絶家。

 

この時は、南北朝でいざこざしてただけじゃなくて、北朝内でもいざこざしてたみたいですね。

南北朝の合一については、桃崎有一郎著『室町の覇者足利義満』に詳しいのでぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

本ページでは割愛。

後水尾天皇の子孫

102代後花園天皇から107代後陽成天皇まではずらーっと飛んで

108代後水尾天皇からのお話です

 

後水尾天皇の即位が1611年。丁度江戸時代が始まった頃で、徳川家との権力争い的なところがあったようです。

娘の和子を入内させたい2代将軍・徳川秀忠VS武家の言いなりになりたくない後水尾天皇

色々いざこざがあって、とりあえず入内が成功。和子と後水尾天皇のあいだに、興子内親王、高仁親王、若宮(皇子)が産まれる。しかし、皇子2人は早世。そして徳川への意趣返しとして、興子内親王へ譲位。明正天皇*41

これにて、和子との子供はもう天皇になりようがありませんと、突き付ける。

 

後水尾天皇としては、この意趣返しをとにかく早くしたかったらしく、紹仁親王がまだ幼かったこともあって、しゃあなし興子内親王へ譲位したくさい。

なので、紹仁親王元服したらすぐに譲位。後光明天皇

 

しかし、彼が早世。

ちょっとここの経緯はよく分からんかったが、どうも、識仁親王を次の天皇にしたかったらしい*42。なので、識仁親王を後光明天皇の養子にした(したかった?)。しかしさすがに幼過ぎたか。中継ぎとして良仁親王が登板。後西天皇*43

 

識仁親王元服すると、後西天皇は譲位。識仁親王が即位。霊元天皇

その後は既定路線化した流れで、朝仁親王へ譲位。東山天皇*44

 

室町~江戸へかけての皇位。皇室内での争いというよりも、武家との戦いだったっぽい。

次項、最終回。

東山天皇の子孫

書いたはいいけど、あまり問題になるような話はないんですよね
不幸なことに、東山天皇の第1,2,4皇子が早世。嫡子である、第5皇子の慶仁親王が即位。中御門天皇

そしてここに天才がいた。新井白石。「宮家は4家あった方が良い。」との考えから*45、皇統断絶の危機を避けるため、東山天皇第6皇子の直仁親王世襲親王家閑院宮を託す。

 

その後、流れ流れて桃園天皇崩御。子供の英仁親王がまだ4歳と幼いために、中継ぎとして、桃園天皇の姉の智子内親王が即位。後桜町天皇

英仁親王元服すると、譲位。英仁親王が即位。後桃園天皇

 

しかしまた事件。男児を残さず早世。

ということで、以前にも見たが*46、後桃園天皇の娘の欣子内親王と結婚できるという条件を見つつ、師仁親王が即位。光格天皇

 

伏見宮でまずかったわけではないが、やはり近い血筋の方がそりゃいいということで、新井白石が天才だった。

こうやって、その時々の天才が何とかして皇位を継いできたのがよく分かる。

光格天皇の子孫

欣子内親王と結婚した光格天皇でしたが、2人の間に生まれた子供は早世。

なので、現在まで続く皇統には、後桃園天皇の血統は入ってはないようです。

この系図がこの先も、それぞれの時代の天才たちによって千代に八千代に続きますように。

終わりに

というわけで、これにて歴代天皇の「両統迭立」についての考察終了です。

結果的に、「両統迭立」と言える範囲は、いわゆる南北朝時代と呼ばれるその直前の後嵯峨天皇のあとの世代と、ちょうど今大河ドラマ『光る君へ』で題材になってる、村上天皇のあとの世代。この2つがせいぜいなのかなと思います。

というか、皇位を皇室内で争っていたこと自体が実は結構稀な事象だったようです。

治天の君か、時の臣下の実権を持つものか、どちらかがいるせいで争いようがないというか。そういう平和な時間が多かったんだと思います。

良いことですね。

 

さて、ということでちょっとした感想ですが。

ちょっとした思い付きが、まさか1か月がかりの話になるとはさすがに思っていませんでした。ただの趣味なんですけど……

 

なんか書こうと思って調べてても、ネットの情報が足りなさ過ぎるから、書籍を買い足したり。昔見たはずの動画とかを見直してみたり。

しまいには、初めて宮内庁のページに飛んでみました。

 

素人が素人なりにちょっとだけ調べようと思ってもこれだけ時間がかかるんです。職業として、それこそ書籍を出してくれてる人たちには本当に頭が下がる想いです。

20000文字。

何をやってんねん!

 

しかも、まだまだ調べたいことはたまりにたまってるというか。

この記事をまとめるにあたって、その途中で出てくるんですよね。「この記事で書くには内容が濃すぎる!」みたいなね。

というわけで、月1本出せたらいいですね。こういうがっつり勉強。

もう少しのあいだは頑張ると思うんですが、結局は趣味の範囲なので、まとめるの面倒臭えってなったらそれで終わりですが。

また会う日があれば。

 

もし時間があればゆっくり動画で解説もしてみたいですね。

みんなも本買って読んで勉強しよう!

参考文献

書籍

倉本一宏. 藤原氏. 中公新書,2017,297p.

倉本一宏. 公家源氏. 中公新書,2019,265p

倉本一宏. 敗者たちの平安王朝. 角川ソフィア文庫,2023,259p.

倉山満. 嘘だらけの日本古代史. 扶桑社新書,2023,271p.

倉山満. 日本一やさしい天皇の講座. 扶桑社新書,2017,189p.

倉山満. 国民が知らない上皇の日本史. 祥伝社新書,2018,356p.

倉山満. 皇室論 日本の歴史を守る方法. ワニブックス,2023,254p.

竹田恒泰. 現代語古事記. 学研,2011,344p.

竹田恒泰. 古事記完全講義. 学研,2013,523p.

竹田恒泰. 旧皇族が語る天皇の歴史. PHP新書,2008,283p.

竹田恒泰. 天皇国史. PHP研究所,2020,668p.

新村出. 広辞苑 第6版. 岩波書店,2008,3049p.

北郷和人. 空白の日本史. 扶桑社新書,2020,275p.

北郷和人. 北条氏の時代. 文春新書,2021,299p.

北郷和人. 承久の乱. 文春新書,2019,218p.

桃崎有一郎. 室町の覇者足利義満. ちくま新書,2020,35p.

吉重丈夫. 皇位継承事典. PHPエディターズ・グループ,2019,512p.

渡部昇一. 皇室はなぜ尊いのか. PHP研究所,2011,180p.

webページ等

【平安時代】56 保元の乱は詳しく見れば理解できる!【日本史】 - YouTube(参照 2024-02-29)

「土御門通親(源通親)」村上源氏の全盛期を築いた平安末期から鎌倉時代初期の政治家 | 戦国ヒストリー(参照 2024-03-10)

【ゆっくり日本史解説】建武の新政ってなんだ? なんで多くの不満を生むことになったのかについて簡単に解説 - YouTube(参照 2024-03-17)

【ゆっくり解説】 南北朝時代 なぜ天皇家が二つ存在することになったのか その原因と建武の新政から南北合一までの流れを簡単に解説 - YouTube(参照 2024-03-17)

【ゆっくり日本史解説】観応の擾乱 日本史上最大規模と言われる足利尊氏と直義の兄弟喧嘩はなぜ起きてどうなったのか簡単に解説 - YouTube(参照 2024-03-17)

新番組 歴史人物伝~足利の時代 第1回「 足利尊氏」秋吉聡子 倉山満【チャンネルくらら・6月11日配信】 - YouTube(参照 2024-03-17)

【5月28日配信】倉山満が訊く、「後醍醐天皇の子孫と太平記を語る!」ゲスト:カリスマ日本史講師竹内睦泰さん【チャンネルくらら】 - YouTube(参照 2024-03-17)

特別番組「名作探訪 観応の擾乱」小野義典 倉山満【チャンネルくらら・6月27日配信】 - YouTube(参照 2024-03-17)

宮内庁. 「天皇系図」.https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html,(参照 2024-02-21)

両統迭立 - Wikipedia(参照 2024-02-21)

*1:余談ですが、この家系図に皇室っぽさが隠れている

24代仁賢天皇は、遡ればおじいちゃんが履中天皇ではあるんですが、やはり父親は天皇ではない

何とも微妙に皇位から遠ざかっていた履中血統

なので、先々代の天皇の姉(妹?)であり、先々々代の天皇の娘である、春日大娘皇女を娶る

これにて、女系で允恭天皇の血統を残したという話ですね

*2:これこそが、皇室における正しい女系の使い方だと考えられる

*3:また面白いのが、どうにかしてどこかに女系で仁徳の血統を残そうと画策してたようで

安閑の皇后は仁賢の皇女の春日山田皇女

宣化の皇后も仁賢の皇女の橘仲皇女

欽明が早くに死んだ場合の保険がかかりまくってる

*4:神別氏族

*5:当時の最高権力者は蘇我蝦夷山背大兄王の母親は蘇我氏。つまり、ここだけ見れば山背に皇位を継がせそう。という面で意味不明。

*6:このあたりからも、最高権力者であるはずの蘇我蝦夷の力が思ったよりもなさそうに思う。のちの藤原氏に比べて決定力にかける? 推測にはなるが、2点。

1,まだ古代においては、天皇家自体の実権があったために、群臣の一存で皇位を決められない。

つまり、平安時代では天皇に実質的な権力がなくなってきたために、群臣たちに政務を任せているがゆえに、彼らの都合で天皇を選ぶ力も追随してきた。

2,まだ古代においては、天皇家自体の実権があったために、外戚という地位が弱かった。

つまり、これも推測にはあるが、摂政という概念がまだ弱く、また幼少の後嗣を外祖父側が匿って育てるような環境がなかったこと。

*7:これをどう捉えるかだが、おそらくは譲位の初例。だって、終身天皇制の当時にまだ生きてるのに自分の意志で天皇辞めてるから。いや、自分の意志かは分からんね。誰かの差し金かもしれんね。

とにかく、天皇ってやめれるんやね。と。

乙巳の変で、いわゆる「大事な儀式の場面で天皇の面前で臣下が、次期天皇候補の一人に殺される。」なんて事件は凶例であって、それを新儀で乗り越える。をやっただけかいな?

このときにその概念があったかは不明。

*8:難波宮に遷都した孝徳天皇だったが、彼一人を残して、皇太子もろとも都を戻すと断行。失意になったから、これで終わったものの、心が強ければ2所朝廷の可能性もあったか? さすがに実権持ってなさ過ぎてあり得んか?

*9:ちなみに、孝徳天皇の息子に有間皇子がいるが、彼は天智天皇に殺されている。雄略天皇と似たイメージ?にも見える

*10:そもそも、じゃあなぜ最初は天武が皇太弟だったのかは不明。

古代は兄弟継承の方が優先されていたとかいう説もあり。よく分からん。

*11:乱の原因はいくつか説があるっぽいが、正直よく分からんので割愛

*12:吉野の盟約も参照

*13:草壁の母はのちの持統天皇に対して、長男の高市皇子の母は豪族・尼子娘。母親のランクで継承順位が決まった

*14:新儀し過ぎじゃね

*15:皇室に元服って概念があったか知らんけど、ようするに14,5歳の当時で言う成人になった的な

*16:わざわざ譲位する意味は分からんけど、譲位の時期で既に齢54。そろそろ死ぬかも分からんから、もうちょっと確実な奴に未来を託しておこう的な感じだと推測してる

*17:とうさんじょ。藤原氏の三女の意味か。

*18:後、明治になってから「淳仁天皇」の諡号がつけられた

*19:藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され、絶食して没した?

*20:次男の伊予親王は母親が夫人。安殿や神野の母は皇后。ランクで負けてる。

*21:これもあって、惟喬親王を瞬間的な中継ぎにしようと画策したらしいが。まあ、うまくいかんもんやね

*22:17歳だから、幼帝というほどではないかもしれんが、古代では30歳でしか即位できんかったことを考えると確かに幼くはある

*23:菅原道真の怨霊との噂あり?

*24:平将門の乱藤原純友の乱、富士山噴火、地震、洪水など

*25:醍醐天皇の皇子は、関白・藤原基経の娘の中宮・藤原穏子の皇子が上記3人。

高校天皇の娘の女御・源和子の皇子が3人。

それ以外の皇子は臣籍降下してる。

*26:右大臣・藤原師輔の娘

*27:母は藤原嬉子

*28:母は禎子内親王

*29:古事談』には、崇徳天皇が、待賢門院とその養父の白河天皇の子供だという噂が流れたと記述があるらしい。

それがきっかけで、崇徳天皇への譲位を迫るようになったとか。

でもだとすると、そのあとの、後白河天皇も待賢門院の産んだ子供で、まだ白河法皇が存命だったころに産んでるので、こっちは納得がいってる理由が辻褄が合わん。

また、『古事談』以外書物への記述がないので、これもいわゆる鳥羽天皇の陰謀の裏隠し的なものだと思う。私は個人的にあまり信じてない。

*30:催馬楽・朗詠に比べて自由な表現をする民謡・流行歌。田楽・猿楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込んでいたらしい。

*31:これ以外にも、「以仁王の令旨」も参考

*32:後鳥羽天皇としては、早々に上皇になって治天の君として院政を敷きたい。通親としては、当たり前の話だが、自分の外孫を天皇にしたい。

*33:親王宣下がなく、元服時に父親が配流された状態だったため、親王ではなく王だと考えられる

*34:土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立する動きもあり、数日間天皇空位が発生した。仁治三年の政変も参照。

*35:承久の乱以降、幕府が皇位への口出しを十分できるようになっていることの示唆か?

*36:ここの経緯は霜月騒動も参照したい

*37:元弘の乱

*38:後醍醐天皇が持ち逃げしたため

*39:光厳上皇、光明上皇崇光天皇、皇太子・直仁親王

*40:これが後に、伏見宮家として残り、栄仁親王伏見宮の起源とするらしい

*41:称徳天皇以来、約860年ぶりの女性天皇。どうにかして女性天皇を避けてきた当時の気持ちがよく分かる。よほど称徳天皇女性天皇に懲りたと見える

*42:光明天皇の意向?

*43:後西天皇は高貴宮が「天子御作法」(天皇として必要な儀式・政務の作法)が出来るようになるまでの中継ぎであるという認識は、後水尾法皇江戸幕府間の共通認識であった

(野村玄 『日本近世国家の確立と天皇清文堂出版、2006年、P278-282)。

また、後西天皇の即位にあたって酒井忠勝ら幕閣の意向を受けて上洛した高家品川高如から後水尾法皇東福門院に対して、識仁親王元服したら天皇が譲位するという法皇の方針には同意をするが、後西天皇の行状が良からぬ点があれば東福門院の判断でいつでも譲位を行える(つまり、譲位の判断は後水尾法皇ではなく、徳川将軍家出身の東福門院が行う)ようにとの幕命が伝えられている

(久保貴子 『近世の朝廷運営 朝幕関係の展開』岩田書院、1998年、P52-54)。

*44:直仁親王以来、約300年ぶりの立太子礼を経て、皇位へついた

*45:しかも、その当時の3宮家(伏見宮有栖川宮桂宮)が、東山天皇から見ても遠縁なことも理由だったか?

*46:仁賢天皇とか、継体天皇とか、光仁天皇とか、後朱雀天皇とか